【食コラム】 春に春の花咲く季節であるために
2009年04月15日
桜咲く季節となりました。
世界中が暗いニュースで沈み込んだこの冬、ひとしお待たれた「春」の訪れです。
自然の営みは今のところ着実で確かなものです。冷たい風が吹く冬の日も窓からさしこむ陽射しは日一日と明るさと暖かさを運んでくれる。
小さく固い冬芽の桜。少しずつふくらみをまして赤みを帯びてくると、開花情報が気になり出します。「自然はえらい!」と思わず喝采せずにはいられません。
そのえらい!自然が狂いだすゾ、と言われつづけてきました。気候変動、温暖化という言葉を頻繁に使いながらもどこか他人事。恵まれた自然にどっぷり浸かりすぎて、その恩恵すら忘れがちな私たち日本人にとっては、近くて遠い現実だったかも知れません。が、ここ数年は明らかに異変度がアップ。自然時計に合わせて生きる植物たちが先ず悲鳴を上げだしました。近い将来、お正月は桜の花見で、なんてことにもなりかねません。花見はさておき、自然相手の農家の皆さんのご苦労が思いやられます。
春が訪れて花が咲く
なのに鳥は啼かない
かのレイチェル・カーソンのSilent Spring「沈黙の春」が世に出てから半世紀になろうとしています。近年になり、この沈黙の春に是非論も出ているようです。過度な化学物質悪者論をつくりあげた、特にDDTの全面禁止がマラリア撲滅の機会を逸してしまったというのが否定論者の主張です。
でも自らの行為は必ず自らに還る。是非を論じている間にも鳥の啼かない春の訪れがにわかに現実味を帯びてきませんか。あの衝撃の警鐘から私たちは何を学び、どう変わり得たのでしょうか。
日本での有機オーガニック運動にはいくつかの大きな波がありました。第一次の波はこの沈黙の春、そして有吉佐和子氏の「複合汚染」と言われます。有機農業運動や環境問題に取り組んだ動機がこの2冊の本だったという方がたくさんいます。
米国も日本もまさに経済優先、高度成長に向かおうという時代、流れに逆らって警鐘を鳴らした女性二人。「生命」と対座した女性ならではの視点だったと思います。
その有吉佐和子氏を一度だけ取材させてもらったことがありました。急逝する何年か前、長編の歴史小説を次々と世に送り出していた頃。講演の終わった後30分程度ならという約束。控え室に現れたのは真っ白なスーツ姿の大柄な女性でした。複合汚染のその後の行方に興味があり、その由を伝えたのですが、話はやはり歴史から入りました。
私がなぜ歴史小説を書くか、それは「もしも」という仮定から入るから。もしもクレオパトラの鼻が2センチ低かったら?もしもコロンブスが大陸を発見しなかったら?もしも信長が本能寺に行かなかったら?
「もしも」の3文字から想像力をふくらませていくと、歴史ほど面白いものはない、「歴史は必然ではなく、偶然からつくられる」といった主旨のことを一気に話し出しました。そして最後にだが「複合汚染」は偶然からではなく、必ず起きてくる現実なのだ。公害、環境汚染に「もしも」は要らない。「もしも」があっては困るのだと。
「複合汚染」から35年、すでに仮想ではなくその現実の真っただ中にある私たち。
便利さを求めすぎて、不便が生み出す工夫、応用という智恵は退化です。
より大きいことを求めすぎ、ささやかな日々の喜びや感謝がこぼれ落ちました。
多少不便でも、ゆっくりとした歩みでもいい。澄んだ青空に満開の桜、かしましく鳥が啼く。そんな春の訪れを守りたいものです。









