【食コラム】 「おいしい」の向うにあるもの
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2009年12月25日

人生最後の食事は何を食べたいか――。何年か前、「最後の晩餐」というテレビ番組が話題になったときである。仲間内の集まりでもこの話になり、「じゃあ、みなでそれぞれ表明しよう」ということになった。自他共に食への一家言を持つ面々、ことは「晩餐」である。「天然もののフグチリ」「いや赤牛のヒレステーキは旨いそうだ」「やっぱり極上ネタの寿司でしょう」ひとしきりさも有りなんというメニューが出揃った頃、誰かがボソッと言った。
「おふくろの味噌汁。麦味噌でタマネギの具入り」。一瞬、沈黙。フーッと不思議な空気が流れた。
「修正!横丁の肉屋の揚げたてコロッケ」「洋食屋のオムライス、ケチャップがけ」「甘っ辛く仕上げた金目の煮付け」「〆はぶ厚いチャーシュー入りラーメン」にわかに威勢のいいテンポで次々訂正が入る。「炊きたてのご飯。ほぐした豆腐とおかかのせてお気に入りの醤油を数滴」そう続けたのは私。
「それって、猫マンマじゃない?」はい。このうえなく幸せな猫でありたいデス。
こうして最後の晩餐表明は幕をとじた。
「味覚」とは「味を覚える」と書く。
「味」は記憶そのものである。
「おいしい、まずい」は食べものを表現、評価する代表的な言葉だ。だが、万国、万人の共通語であるこの「おいしい、まずい」ほど存外不確かなものはないと思う。たったひとつの食べものでも、思い描く味の記憶は百人百様。どこかの国の宰相さまが言った如く、人生いろいろ、感性それぞれ。
味の記憶は人が、どの時代どこでどう生きてきたのかでおおかた決まる。国、風土、地域、家庭環境。そして、大きく左右するのは食べなれた味かどうかだ。誰でも慣れ親しんだものはおいしいと感じる。すぐ受け入れられる脳の訓練ができているのだそうだ。では、好き嫌いは?たいがいは最初の不幸な出会いによる。過去に感じた「嫌い」という記憶の拒否反応が真っ先に作動してしまうらしい。
味を覚えるには学習訓練が要る。子供の嫌いなもの、香りの強い野菜、香辛料、ネバネバ系、酸っぱいもの。これらは総じて家庭環境によるところが大きい。「うちの子供は嫌いだから」と食卓に登場しない食べものやメニューは、えてして母親が嫌いなものが多い。かくて学習機会がないまま、食べず嫌いの大人になり、「嫌い」の伝承が続いていくことになるのだろう。
日本人の味覚に対する感性は抜きん出ているといわれている。味を表現する豊富な語彙は多彩な日本料理に由来していて、絵画的な繊細さをも持つと称されてきた。
相変わらず盛況なグルメ番組のレポーターさん達は、「ジューシー、柔らかーい、甘―い」が三大用語だ。
ある意味で、今の日本の味の好みを的確に表しているかも知れない。
昔の話になるが、ワインの仕入れに便乗して何度かイタリアを廻った。蔵元では度々、ワインのテイスティングとレクチャーが催される。多様な品種で次々用意されたワインの味はその後の学習が続かなかったせいか、ほとんど覚えていない。記憶にあるのは彼らのワインの表現力である。
「黄金色に光る麦の穂」「夕日に透かした赤いバラの花びらの色」「枯れた牧草にフェンネルの移り香」。通訳の作詞?とも思えるほど、絵画的であった。イタリアの強烈な太陽と市場に積まれたカラフルな果物や野菜、ハーブ。なだらかに続く若緑の丘陵。グラス一杯のワインからよみがえる。
「おいしい」は奥が深い。一粒の大豆から、畑、育てる人、大地、水、空気、手元に届くまでの多くの人の手のぬくもりと感謝の想いを感じることができるだろうか。
「おいしい」は「ありがとう」でもある。間もなくお正月。ごちそうのなかに心からの「おいしい」を幾つ探せますか。

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